『広告批評』のファイナルイベントクリエイティブシンポシオン2009
に行きました。
A-2「表現者の冒険」
横尾忠則さん、一青窈さん、「広告批評」主宰者天野裕吉さんの対談を聞きました。
横尾さんの作品と出合ったのは2年ほど前に青森県立美術館の
寺山修司展が始めです。
その後詳しく調べたりしていなかったので、
これを機に少し勉強していこうかなと思います。
とりあえず今回は対談のメモを記載します。
<メモの流れ>
・横尾さんは5回の宣言をしている
・隠居のよさ
・休刊
・絵に関して
・小説に関して
・クリエイトについて
・少年性と横尾さん
■横尾さんは5回の宣言をしている
1967年:死亡宣言
宣言の理由に対し、「したくなりませんか?だからしたんです」
また、葬式も開催。
ただしこれは、横尾さんがニューヨークに行っている間に寺山修司が勝手に開催したよう。
1970年:休業宣言
完治4か月の大けがを負った交通事故を機に休業。
休業中は南太平洋に行ったり、少年マガジンの表紙を描くなどをした。
少年マガジンについては、キャラクターを出したくなかったので
手塚修のキャラクターなどを借り、かく。
1980年:画家宣言
グラフィックの仕事をしてきた中で、画家器質があった。
宣言に対して周囲の反響は批判的。
今まで仕事としていたグラフィックを辞めたわけではないが仕事は激変。
そのため収入は激減したが絵を描く時間を設けられるようになった。
2007年:隠居宣言+デザイン廃業宣言
デザイン廃業宣言をしないと、他人手動の時間で動き忙しくなる。
忙しくなるのは嫌であった。
生活の基盤になるグラフィックをなくしたらどうなるのかにもきょうみあった。
宣言をすることにより未来に対して路線を引ける。
たとえば放っておいてもなるものについては宣言は不要
例:老人宣言。せずとも老人になる
■隠居のよさ
他人から与えられていた仕事では、やらなくてはいけない。
自分のしたいことを出来る。
そういう自分と戯れることができる。
代理者やクライアントと戯れることもできるが、本当の戯れは自分自身とすること。
物事が他律的に動かなくては生活できないが、それが問題。
食うためにやると他人のためにエイシ?に巻き込まれてしまう
(隠居は孤独ではないですか、との質問に対し)
孤独を愛さねば隠居は難しい。
孤独が怖いのならば隠居はしないほうが良い。
僕は携帯ももたないしなるべく孤独になるようにしている。
(「隠居についてのイメージは現況よくない。
これはどんどん働かせて、経済発展をさせなくては、という意図が
見え隠れしている。そういったイメージを変えるためには
隠居者が楽しく伸び伸びとしたものがよい。そうしてくださるんですよね」
との質問に対し)
誰のために隠居するのではなく自分のためにしている。
それを見る人が勝手に判断すればよい。
それはアートと同様。アートは無責任でよい。
でなければ何も書けない。
■休刊
「休刊」という表現をする以上、どこかに依存心がある。
潔く「廃刊」といおう。
■絵に関して
・他人に言われた書き直しはない。
・アーチストは「完成させる」という幻想にとらわれている。
僕の辞書には「完成」という言葉はない。
■小説について
・「作家」とは名乗らない
・小説を書くということは僕にとって趣味。
絵も趣味だが絵は長らく続けているのでしょうがないが、
「作家」とかかげることで自意識に負けてしまう。
・いうなれば「日曜作家」といったところ。
■クリエイトについて
・自分の中にある不透明さを吐き出す行為
不透明さが自分の中に残っていて、重りのように脂肪みたいになっている。
これを吐き出して体重を軽くしてゆくこと。
・最初は「自我」から入っていいが、いずれ「遊び」に昇華できればよい。
・どうしたら相手に伝わるか、を考えてはいない。
考え始めるとだめになる。
一番よいのは「赤子状態」
ニーチェの「人間の性質」があるので紹介する
1.ラクダ:荷物をたくさん背負っている
2.ライオン:荷物なんてどうでもよい。自分のエゴで突き進んでゆく
3.幼児:上記のものすべてをはずしている。
「悟りの境地」ともいうかもしれない。
■少年性と横尾さん
・(天野氏の発言「作品内に少年がたくさん出てくる」に対して)
芸術の核となっているのはインファントリズム
・いかに少年の姿勢でものを見ることができるか、感じることができるか。
が大切。
これをせずして「クリエイト」と呼ぶのは無理だと思う。
通常は、大人くさく、物分かりがよく、どこか慣例じみたものになる。
・ピンクの女性は、少年の視線。大人の視線ではない。
少年は、大人の女性に対して恐れを抱いている。
以上です。
■イベントの趣旨
古代ギリシアやローマの貴人(奇人?)たちは、夜な夜な集まって「シンポシオン」で遊びました。
一回ごとにテーマをきめて、グラス片手におしゃべりを楽しむ。
いまのシンポジウムの原形ですが、
いまどきの形骸化したそれと違って談論風発、究極の大人のレジャーといったものでした。
プルタルコスの遺した記録によると、そのテーマは−*宴会の幹事はどういう人物であるべきか。
*「恋は人を詩人にする」とはどういうことか。
*鶏と卵はどちらが先か。
*宴会の料理はめいめいに盛り分けるのと、大皿からめいめいに取り分けるのとどちらがよいか。
*性交に適した時とはいかなる時か。
*アルファはなぜアルファベットのはじめにあるのか。−といったぐあいです。
それにならって、というわけでもありませんが、
「広告批評」もいよいよ最終号を迎えるにあたって、
数日間にわたってシンポシオンを実施、その成果を最終号の誌上に掲載しようと思い立ちました。共通テーマは、「なんのためのクリエイティブ」。
古代人ほどおしゃれにはできませんが、
悪ふざけでなく、かといってくそまじめでなく、
あくまでしなやかで、自在な放談会にしたい。
「シンポジューム」ではなく、あえて「シンポシオン」と名づけたのは、そんな思いからです。